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2016-09-09

★村田文三 「証言でつづる巨匠の足跡」

※(平成二年六月、産経新聞社発行)より、娘笑子さん、笑子さんの一人娘重子さんを囲んでの、座談会より抜粋。
 →参照 「写真(相川地区)」に写真を掲載 

明治十五年一月一日生れ、無口、虐草は少し喫うが酒は一滴も駄目、軍隊へは甲種合格で日露戦争に二十二歳で行って、約一年と七カ月で終結。
以後鉱山で働き本格的に唄い出したのは四十歳過ぎ、頼まれる度に会社を休み、会社の方から苦情が出て五十歳近くで会社を辞めた。
相川のおけさが「佐渡おけさ」になった苦心談で、重子=「オペラの藤原義江さんと山田耕作さんが文三のおけさを聴きたいと、お座敷(新潟)に呼ばれた時(昭和二年十一月)に、採って整えられた。」
笑子=「父親がいた頃、唄を聴くと背筋がピーンと立った様で、鉱山祭の時は皆がついて歩いて、情緒があった。
それと文三の十八番の歌詞『かぼちやぼちやぼちや、ぼちやぼちやかぼちや、かぼちやぼちやぼちや、ぽちやかぼちや』を最後に唄った。

おけさの他に追分が好きだった。」
重子=「母も私も一人っ子でしたから、可愛がられた。優しく私のデスクに水盤で生けてくれた。中学生でカバン持ちで連れて行かれて、唄い終わってから曽我さんが、お客の育っていた事を、必ずアドバイスをしていたのを開いていました。
村田文三は唄に徹した人だったといろいろな記事に載っていますが、本当に好きだったのは東京の音楽学校をでている曽我さんで、自分の夢を文三にと思って仕立て上げて、文三が持っていた唄の素質が一致して
できたんじやないかとおもいます。」 
叉本名は文蔵であり 「文三」 と名付けたのは曽我氏であるが奇しくも生家の屋号「文三屋」 と語呂が符号するのも面白い。

最後にカバン持ちの第一号という笑子と。
重子=「私が男だったら唄わせたんでしょうネ。だから重子にも唄っちやいけないつて‥‥。お金にこだわらない人で、出演したお礼は立浪会に入れて、ご祝儀も皆で分けて、けつして自分に入れる事はしなく、お金
が無くなったら 『曽我さんとこへ貰いに行け』 と、又資料は佐渡の本家にあり、亡くなってから巡業先に印した地図を見ると、行かなかった所はないくらいなのに驚いた。苦労もしたんだろう。
お弟子はとらず、二代目もきっぱり断り、芸能界は嫌いだと言い、父はおけさ一代で相川で生れ、相川で死にました。」

一名 「文三節」 と言われる下げる節で唄うには、頭のテッペンから声を出し、かなりの声lが必要です。
これ程の名人を育て、佐渡おけさを世界に広めた立て役者の一人、曽我真一氏は平成四年九月三十日午後九時五十八分、相川病院で死亡、享年九十九歳。
これ迄は立浪会の経歴を書いてきたが、初めて知ったことも多く、沢山の人達の奉仕的な協力もあり、民謡会の先輩から聞いた所によると、九州巡業の帰り交通費が足りず、曽我さんが残って足代分働いてやっと帰
れたと聞きました。
又「道楽者」 とか 「おけさ連中」と言われながら佐渡のおけさを全国に広めた人達の苦労を今の関係者は如何様におばしてかや?
さてその後、天下に名声を轟かせた文三翁が亡くなつても曽我会長総指揮の元に、唄は松村直吉、村上権五郎、島田幸一、木島栄太郎、岡村亀蔵、加藤健三らが交替で出演し、昭和三十三年六月一日、総裁皇太子殿下御台臨第三回アジア競技大会エキジビジョン閉会式に一千人の、「相川音頭」と「佐渡おけさ」を国立競技場で踊り、大会有終の美を飾った。

立浪会東京後援会を作り、二月中旬より五月末日迄、曽我会長、森川健一、高田武雄、踊りの指導に上京。
大会当日は立浪会より二十二名、東京は一〇〇四名参加。
同二十二日、日本放送(テレビ) 「民謡を守る人、村田文三を偲ぶ座談会」 に出演。同八月二十二日「第三回NHK全国民謡舞踊まつり」 (東京都体育館)にテレビ出演。
東京同好の志を集い二十名参加。同年十二月六、七日NHK新線放送局テレビ開局記念演芸会(於新潟公会堂)に一行二十名で参加。
昭和三十四年八月二十五日、立浪会創立三十五周年記念とおけさ会館新築落を併せて祝賀会を催す。
曽我会長より永年勤続功績表彰状及び記念品を授与する。

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