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2016-10-24

相川音頭


(『山里の人びと』(昭和57年 大崎郷土史研究会)より) 
・音頭
音頭は三つ拍子ともいい、相川音頭のはじまりであるといわれ、源平軍談を歌い込んである。
源平軍談は、初段宇治川の先陣、二段巴御前の勇戦・三段那須与市扇の的・四段佐藤継信の忠死・五段義経の弓流しである。

★内容

※「相川音頭全集」(山本修之助)他による。

○源平軍談(五段)

・宇治川先陣佐々木の功名(初段)・粟津の合戦巴がはたらき(二段目)・那須の与市弓矢の巧名(三段目)・嗣信が身代りに熊谷が菩提心(四段目)・景清が錏引きに義経の弓流し希代の名馬に徒も知盛の碇かつぎ(五段目)
作者は、文政年間佐渡奉行所に勤めていた相川町在住の役人山田良範と言われるが、中川赤水説もある。中川赤水については、架空の人物とも言われたが、昭和三十年五月、相川町大安寺で墓が発見された。

○那須の与市(二段)

・壇ノ浦弓矢の巧名(初段)・射当てたり弓矢のつぎまと(二段日)
初段は「古作」、二段目は「文政八酉年新作」。

○文弥法師歌の中山(一段)

「古作」であり、岩木拡氏は、佐渡の音頭のうち最も古いものであろうと言う。

○滑稽鼠くどき(一段)

○謡曲百番くずし(一段)

謡曲百番の題名を織り込んだもので「外百番くずし」に対して「内百番くずし」とも呼ぶ。
普通は「うたい百番くずし」言う。作者については、辻守遊とされているが、田中葵園の作とする人もある。

○謡曲外百番(うたいとひゃくばん)くずし(一段)

百番以外の謡曲名も歌うがそれ程流布していない。山田良範説もある。

○伊右衛門おはつ 心中紫鹿の子(五段)

この伊右衝門おはつの心中は、「佐渡年代略記」によると「享保八卯年」。

○伊右衛門おはつ 紫鹿の子縁の追善(一段)

文政八年新作とあり、前作「紫鹿の子」を少し変化させたもの。

○丘十郎花世 心中妹背の虫ずくし(一段)

「紫鹿の子」の改作

○おさん仙次郎 心中濃茶染(三段)

「佐渡年代記」によると、宝暦六年、下寺町大竜寺境内であった「庄吉」と「さん」の心中がモデル。心中物中の傑作である。蔵田茂樹の「都の手振」(文政三年三月)にも載る。

○医師の祐庵さくらのお菊糸桜花の白酒(二段)

岡松奉行(安政六年より文久三年まで五年間在任)の家士給役落合貞七作。

○人形長蔵油屋お仙 乱髪妹背の元結(二段)

○おさく幸之進 冥土の旅門出の占象(二段) 幸之進は越後小千谷の産。

○水金女郎名寄 黄金花咲く廓の全盛(一段)文政八年作

○水金女郎名寄 浮女の藻塩草(一段)文政12 年作

○心中娘一人の道行(一段)弘化3 年、作者は中川赤水。

○百里の噂(一段)

○善知鳥くどき(一段)中川赤水作

○三段物の内(三段)座頭周高一の作

・地獄ぞめ歌車(初段)
・三途川じくねばなし(二段目)
・浄瑠璃あだな問答(三段目)

○新板小川の心中(文政8 年 中川赤水作)

番匠松蔵機織お竹 春の夜の夢物語(五段)

・村習い寝宿の小屋人(初段)
・恋と義理とのなかずみ(二段目)
・工夫したからくりしごと(三段目)
・破れたる親子の中垣(四段目)
・浮き沈む涙の血の池(五段目)

○新板 真情落つる松の葉(二段) 安政6年作

○おいそ心中(二段)

旧河崎村での心中が題材。明治10 年5 月とあり昭和29 年発見。

○佐渡天地天保地震くどき(一段)

○天保年中倹約音頭(いろはくどき)(一段)

天保年中 潟上村小糸半左衛門作 「越戸」集落の菊地半左衛門作だろうという。

○いろはずくし(一段)

○一二三くどき(一段)

○享和文化地震いろはくどき(二編)(一段)

○佐渡道中音頭(一段)

○地名読込 相川道中記(一段)

○木津くどき(一段)

「木津」は「小木ノ津」を略す。安政前後の作と言う。

○水金名所(一段)

○水金女郎 名くずし(一段)

○庶民注意 御上の掟くどき(一段)

○徳利くどき(一段)

○つかさくどき(一段)

○耕地整理 模範くどき(一段)

○越後地震 瞽女くどき(三段)

○信濃地震善光寺くどき(二段)弘化4 年中川赤水作

○主水くどき(四段)

・悪縁にからまる白糸(初段)
・子を残し身を捨つるお安が亡骸(二段目)
・身にせまる主水が苦しみ(三段目)
・いさぎよき雪の白糸に真黒なる墨の主水が血にまさる赤恥の晒し衣(四段目)

江戸に起きた心中で全国的に知られるもの。弘化4 年、中川赤水作。「八木節」にはこの「鈴木主水」が唄われる。

★「相川音頭」歌詞解説(1)

洗足学園魚津短期大学教授 仲井幸二郎

1 どっと笑うて立つ波風の (ハイハイハイ)荒き折節義経公は(ハイハイハイ)
  いかがしつらん弓取り落し(ハイハイハイ)しかも引潮矢よりも早く(ハイハイハイ)
2 浪にゆられて遥かに遠き弓を敵に渡さじものと
 駒を浪間にうち入れ給い泳ぎ泳がせ敵船近く
3 流れ寄る弓取らんとすれば敵は見るより船漕ぎ寄せて
  熊手とりのべうちかくるにぞすでに危うく見え給いLが
4 すぐに熊手を切り払いつつ遂に弓をば御手に取りて
  元の渚に上がらせ給う元の渚に上がらせ給う(以下略)

(口訳)

1 「どっと笑う」ということばがあるが、そのことばのようにドーツと立ちのぼる波、ドーツと吹きつのる風が一段と荒くなったちょうどそのとき、源義経公は、どうしたこ

とであろうか手に持っていた弓をとり落してしまった。
しかもそのとき、ひく海水は失よりも速いほどに速くひいていき、弓は沖のほうへ流されていった。
2 波にゆられゆられしながら遥かに遠いところまで流された弓を、敵である平家方に渡すまいものと、義経公は乗っていた馬を波間に乗り入れなさって、荒波の中

を馬をあやつって泳がせながら、敵船近くまで寄っていった。
3 そして、波間に流れ寄る弓を取ろうとしたので、敵はそれを見るとすぐ船を漕ぎ寄せてきて、手の長い熊手をのばして弓をひっかけて取ろうとし、もうすこしのとこ

ろであぶなく弓を取られそうにおなりになったが・・・。
4 すぐに熊手を切り払い切り払いして、とうとう弓をば御手に取って、馬を引き返して、元の波打ちぎわにおあがりになった。

(わからないことば)

「どっと笑うて」は、披がドッとおこってはバッと砕けるような様子を擬人的に言ったことばです。
「いかがしっらん」は、どうしたのであろうかの意。
「渡さじ」は、渡さないつもりだ、渡すまい、という意志をあらわします。
「渚」は波打ちぎわのこと。

(その背景)

新潟県佐渡が島「盆踊唄」というより、今は全国的に愛好される民謡の一つです。
歌詞および口訳では後半部分を略しましたが、この話の中心はむしろ後半にあって、弓をとりかえして無事に戻った義経公に対し、家来が、たとえ秘蔵の弓にしても

命にかえられようかといって、その軽率な行動をいさめます。
ところが義経は、弓を惜しむのでほない、敵に弓をとられて、この弱い弓が源氏の大将九郎義経のものだといわれるのが無念であるから、命にかえて取りかえした

のだ、と言ったので、家来たちも感じ入ったというのです。
この話は、義経の「弓流し」といって、『平家物語』などにも載せられています。
 このような、「相川音頭」の「源平軍談」は、初段「宇治川の先陣」、二段「巴の勇戦」、三段「那須与一扇の的」、四段「継信の死」、五段「義経弓流し」で、「どっと笑

ぅて立つ浪夙の……」の部分は第五段の途中に当たります。
現在ではこの部分が、「相川音頭」の代表的な歌詞になっています。
 この「源平軍談」ほ相川の山田良範の、文政ごろの作といわれていますが、題材になっている五つの話はいずれも平曲(へいきょく)の著名な話で、したがって『平

家物語』にも採録されていることにもなるわけです。
つまりは、中世末期から近世にかけて、琵琶を伴奏に平曲を語り歩いた琵琶法師たちから得た源平合戦の知識は、思いがけず広い地域における庶民の知識でも

ありました。
もちろん佐渡という土地にも平曲は伝播され、その知識は普及していたものと思われます。
琵琶法師たちの広い足跡は、当然佐渡が島にも及んでいたことでしょう。
 そんな土台もありましたから、いわゆる日本人の「判官びいき」ほ根強いもので、それもこの「相川音頭」の人気にまんざら無縁で
もなかったともいえるでしょう。
 かつては「相川音頭」には「源平軍談」以外にもいろいろの口説(くどき)がうたわれたようです。
近世、佐渡の相川金山を管理する金山奉行の上覧にそなえるため、毎年七月十五日の夜に踊られたので、「御前踊」などともよばれていました。
相川音頭の踊は、今も浅黄の着流しに角帯を締め、編笠をかぶりますが、この編笠については、「御前踊」のとき奉行に顔を見せる失礼をさけるため笠をかぶり、ま

わりに垂れをつけたり覆面したりしたなごりであると説明しています。
しかし、こういう仮装した盆踊りの姿は、ほかの土地の古風な盆踊りにも共通した、一種の大中大事な扮装のなごりであって、盆踊り
が異郷から釆た祖霊(亡霊)の群行であったという考え方の淡いなごりの一端なのでしょう。
 こんなふうにして、唄や踊りは古いものですが、「相川音頭」という曲目名は決して古いものではありません。
もとはただ「音頭」とよばれていたのですが、大正末期のころ、相川町の有志が「おけさ」や「音頭」の普及のため団体を結成し「どっと笑うて立浪風の」の歌詞からと

って「立浪会」と名づけ、レコードに吹きこむとき、単に「おけさ」や「音頭」ではほかの土地のものと区別がつきにくいというので、地名を冠して「佐渡おけさ」とか「相

川音頭」という名をつけたものです。
 同じ佐渡の唄でも、「相川音頭」は「佐渡おけさ」のもつ味とはまた違って、力強く、明るく、男性的な感じがあり、「おけさ」とともに根強い人気を持ちつづけている曲

です。

★「相川音頭」歌詞解説(2)

民謡評論家 竹内勉

1「ドット実ろうて」は、大波が立ちあがって、くだけ落ちる様子が、丁度ロをあいたように思えるため、しかも波のくだける折り、ドドッ1と音もするので、大波を表現す

るための形容。
2「立つ波」は、波が立つというだけのことであるが、じつは、この部分を抜き出して、新潟県佐渡郡相川町の.「相川音頭」を「佐渡おけさ」の保存普及団体は名称に
用いて、「立浪会」と名乗るようになった。
それは大正十二年六月十日のことである。
※(渡辺注)大正13年が正しい。
3「折節」は‥その折り、その節を重ねてよりによつてその時。
4「義経」は源氏の武将で義朝の子であり、兄に鎌倉幕府を開いた頼朝がいる。
 治承四年(1180)に、頼朝が兵を起すのので、はせ参じ、のちには源氏の総帥として大活躍。
 平家一門を次々に破る手柄をたてるが、頼朝と不仲になり衣川で自害して一生を閉じる悲劇の武将。幼名牛若丸。
5「いかがしつらん」は、どうしたことか。
6「矢よりも早く」は、早いことをたとえるに、矢を用いるのた加えて、落としたのが弓なのに、余計にたとえに矢を用いるとびったりするため。
7「敵」は、源氏の義経に対する敵側の平家。
8「打ち入れ」は、激しく乗入れる。
9「泳ぎ泳がせ」は、駒を海上へ泳がせながら操つって。
10「熊手」は、熊手の形をした武器、ものや敵を引き寄せるためのもの。
11「取りのべ」は、熊手を手にすると、それをのばし。
12「打ちかくるにぞ」は、義経に打ちかかる。
13「切り払いつつ」は、太刀で、のぴてくる熊手の柄を切り落とし、右へ左へとかわしながら。
14「御ん手」は、義経がその手で。
15「元の措」は、弓を落して、駒を乗り入れた砂浜。

 (歌詞の背景)

徳川幕肝の台所を支える相川金山とはいっても、盆踊りとなれば男女の恋の相手探しの場だけに、歌われる盆踊り唄の歌詞は、心中ものが多かった。
そこで文政年間 (1818-1830)に佐渡奉行所に勤める役人、山田良範が、それまでのものに替って、格調高く、品位のある、勇壮なものということで、「源平軍談」

の戦記ものの歌詞を作る。
更に、天保十年(1829)には、中川赤水も「源平軍談」を作るというから、何回かに渡って、何人もによって作られているようである。

(歌詞の意味)
 ドット大口あいて、笑うような大波がおこる、時化た海で、よりによって、その荒れる中で、源氏の総大将、源義経はどうしたことか手に持つ弓を落した。
 ところが運悪く、丁度引き潮で、潮は沖めがけて、矢よりも早いかと思えるほどの鋭さで流れはじめているため、弓も沖へ沖へと流れ出した。
 弓は、波にゆられて、だんだん沖合遠くへ一流れていく・
 沖合には、源氏の敵、平家一門が、船に陣取っている。そのままほっておけば、やがては相手に弓を拾われてしまう。 
 武士の魂である弓を相手に拾われるということは、武士の名が立たないので、ここはなんとしても敵には渡せない。
 そこで、乗っている駒を海へ乗り入れ、たくみに操って義経は、敵の船近くまで弓を追いかけた。
 そして波間に浮び、近寄ってくる弓を義経が拾いあげようとすると、駒を乗り入れたのを見た平家の兵も、その弓を拾おうと、船を漕ぎ寄せてくる。
 平家の兵は、眼前の義経に、長い柄のついた熊手の武器で打ちかかれば、義経は駒にまたがっての海上だけに、苦戦にみえる。
 しかし、太刀を抜くと、打ちかかる平家の熊手を、右に左にとかわし、熊手の先を切り落し、とうとう海上にただよう弓を、自からの手で掬いあげると、駒を海へ乗
り入れた海岸まで戻ってきて、無事、地上の人にとなった。

(歌詞の形式)

 軍記もの口説型。
     

★新潟大学 鈴木孝庸(たかつね)教授の講演より

(平成22 年10 月3 日「平家物語と佐渡-相川音頭に導かれて…-」

・相川音頭「源平軍談」は『平家物語』卷第9 から卷11 までに記された合戦が材料である。
・宇治川の先陣と木曾の最期は清和源氏同士の対決、その先の一の谷合戦、八島合戦、壇ノ浦合戦は桓武平氏と清和源氏の合戦である。
・相川音頭は、一の谷合戦と八島合戦の話の順を自由に並べ替えて構成する。

・相川音頭「弓流し」に見る三つの問題

(1)「弓(武具)と武士の関係」で言えば、『平家物語』段階では、武具を武士精神に結びつける考えはない。

「武具より命」の考えは『平家物語』と相川音頭に共通。しかし『平家物語』の「おとなども」と、相川音頭の兼房では主君「義経」に対する「思いの深さ」が異なる。

(2)義経の言い訳について。

『平家物語』は「叔父・為朝」を引き合いに「貧弱な弓の持ち主」であったとの評判が残るのを恐れたのに対し、相川音頭では武具を敵に獲られるのは「不覚」との評判が残るのを恐れる。
「名」(後世の評判)に関する時代的な変化か。

(3)「兼房」(『平家物語』には登場しない)が「弓流し」に登場することは『平家物語』の八島合戦譚がいかに「義経」と強く結び付くかを感じる。

八島合戦は同時代的な記録(『吾妻鏡』等)にもほとんど記述がない。鎌倉武士と手郎(個人的な主従関係)との関係で進行することで、義経の合戦譚として特別に創造・伝承されて来たのだろう。
※「兼房」は室町時代の『義経記』に出る。八島の合戦には出て居ないと思う。

★その他周辺情報(アトランダムに)

・佐渡でも長く各地で歌われ、山本修之助は「私の子供の時分(明治の末頃)の盆踊りにはこの唄であった」と記す。

・昔の羽茂では「昔音頭」と言われ、「謡曲百番くずし」が主だった。

・三味線と小鼓で演奏し、笛と太鼓はつかない。

・慶長9 年佐渡奉行がおかれ金山管理に金山奉行が江戸より送られ、この奉行を慰めるために寛文の頃から毎年7 月15 日の夜、奉行前広場で盆踊りがあった。
 踊りは元禄袖の着流し黒木綿の裾に金糸で模様をつけ、草履ばき、編み笠で、編み笠で顔を隠すのはお奉行に対する敬意を表し囃子の「はいはいはい」は御前での平伏を示すためであろう。
 昔は顔を見せるのは非礼として菅笠をかぶり緋縮緬の垂をつけたが、今は笠を前に垂れ下げている。

・揃いの黒木綿元禄袖の着流し、菅笠にぞうり履き、腰に短い刀を差して、三つ拍子と言って始めに三つ拍子し、続いて12 の振りを繰り返す。
 「前音頭」「御前音頭」と言った。

・踊りに用いる歌を、一般に音頭と読んだ。
 「音頭取り」は盆踊りなどをリードする役目で相川音頭はもともと盆踊りの歌謡として生まれた。
 その歌詞は、羽田清次の『佐渡歌謡集』(昭和13 年)で早くから紹介され、山本修之助の『相川音頭集成』(昭和30年)に詳述された。
 ほとんどが江戸時代の中期以降に出来たと思われる。

・内容を大きく分けると、
 
 (1)「謡曲百番くづし」や「源平軍談」のような、古典趣味的なもの
 (2)お上の掟(倹約令)や地震・地名など、時事に托したものや、「鼠口説」「徳利口説」等の滑稽もの
 (3)この島で実際起った男女の相対死を扱った「兵十郎・花世心中妹背の虫づくし」「おさん・仙次郎心中濃茶染」などの心中物である。

 いずれも七・七調の韻文形式で、結びが七・五調で納めてある。
 この単純な七・七・七の繰返しが口説といわれる音頭の特色で、長編の歌物語になり、主として化政期に、相川などで町人の間で大流行し、盆踊りだけでなく、毛筆書きの音頭本が店頭でも売られた。
 作者は不明のものが多いが、地役人の辻守遊、山田良範、町人で吹分所職人だった中川赤水などが知られている。

・謡曲の題名をちりばめた『謡曲百番くづし』、源平盛衰記に取材した『源平軍談』の二つは、奉行の面前での御前踊りに歌われた。

・踊りの風景は、文政4(1821)奉納の音頭絵馬に描かれ、「立浪会」では無地濃紺の紋付・元禄袖・博多帯・白足袋・折編笠でまとめ男踊りとして現在に伝える。

・相川音頭は江戸時代、小木港から相川の金山までの道中唄として唄われたのが発祥と言う。

・文政・天保年間(1818 ~ 44)になると、尚武の世相の影響で勇ましい歌詞が喜ばれるようになり、現在歌われている源平合戦を描写した5 段の口説(くどき)調となった。 
 天保年間、幕府の倹約令が出るようになってから軍団風のものが唄われたとも言う。

・山田良範は最も有名な源平軍談五段の作者と言われる。文政年間相川の地役人だった。
「謡曲百番くずし」には「外ー」「内ー」があるが、「外ー」は山田良範作とも言われる。
 彼は通称吉平、後、典膳と改め、和歌を好み、武道の故実に精通していた。

・川上喚濤「佐渡の盆踊考」には源平軍談の作者は中津其翁(きおう)作とある。

・岩木拡の話として、安政頃の水金心中物があり良い出来だったが、相手が旧地役人の為余り世に出なかったと。

・相川町史(9)には「心中音頭」(・おはつ伊右衛門紫鹿の子縁の追・おさん仙次郎心中濃茶染・花代兵十郎心中妹背の虫づくし・心中娘一人の道行)と記載され中川赤水作とある。

・昭和20年代には東京などでは「佐渡音頭」として知られていた。

・明治になってから相川音頭と呼ばれ三味線等は後世に入ったと言われる。

・顔を編笠で隠すのは奉行に対する遠慮であろうと町田佳聲は書く。
 そして、「京都方面の音頭がこの地に運ばれて来て、それが変化したものかも知れない」として次のように書いている。
 中国地方で生まれた盆踊口説が相川の町に持ち込まれ次第に定着して相川化されたもの。
 移入された当初は各地の盆踊り口説きと同様に柔らかい調子の真野音頭風に歌っていたが、文政から天保にかけて山田良範が「源平軍談」の歌詞を作り、その歌詞の影響から次第に格調の高い、気品あふれたう唄と踊りになり、各地の盆踊口説の中で異色のものとなった。

・高名な舞踊家の榊原帰逸は「男性的な民謡として日本を代表する民謡と言っても過言ではないほど格調の高い踊りで、民謡で鍛えた人達が揃って踊ると、なまはんかな日舞などよりもはるかに見ごたえがする踊り…」「民謡の神様と言えるこの音頭」などと絶賛する。

・「佐渡歴史散歩」(磯辺欣三 創元社 昭和47年刊)に次のような記述あり。

 「御前音頭」は「源平軍談」でなく、「謡曲百番くずし」「佐渡道中音頭」や各種の「心中音頭」乃時代があった。
 その後、尚武の気風を高めるため「源平軍談」歌詞を作らせた。
 
 盆踊りに「心中音頭」を踊り歌った古老たちが相川に生きて居る。(昭和40年代前半か)
「輪を作って踊り、節は今より哀調がありテンポはやや早かった。踊り方は両手を右や左の肩まで上げて、手拍子をとり、ぴょんぴょんと「はねおどる」ような粗野な踊りだった」。

★相川音頭絵馬(『佐渡相川郷土史事典』他)

江戸後期の盆踊りの風景を描き、縦・横ともに97.5 糎の正方形。杉の寄板に彩色、精巧な筆致で描く。
中央に鼓・三味線の囃し方および音頭取り、周囲に仮装した踊り子達が円陣を作る。
みな覆面をし男女の見分けがつきにくく、山車や棚飾りに似せ、頭上にエビや船・灯籠など型取ったものをのせたり、武士風者、奴風、又伊達姿、尼さん風俗の人もいて、服装からは上下の階層も身分的な意識も余りうかがえない。
相川の盆踊りの起源は明確でないが「今年御広間に踊りあり。町々より金銀の厳物指上げ、昔尽し、別して山師、買石より金鍔を大竹の技に結付け、御門の前に立つる」(『異本佐渡年代記』)などとあり寛永18 年(1641)頃には始まっていた。
「御門」は奉行所の門で門前の広間で奉行が踊りを見物。
その「御前踊」を記した記事である。
この絵馬は江戸沢町の塩竈神社に奉納されており裏書に「文政四辛巳年 八朔 前田郡次」と奉納者および年号が
記され、右下隅に「藤原蘭英作」と絵師の名と押印がある。
化政期は町人文化が栄えた時期であり、この時期の相川の「風流」ぶりを見る上でも貴重で、芸能史および美術史
の好個の資料ともいえる。町の指定文化財。
なお盆踊りに顔をかくして踊る風習は古くからあり、死者に化身し死者と交わることで仏を迎え入れる信仰に由来するという。

★相川音頭集成(『佐渡相川郷土史事典』他)

主に江戸時代に盆踊りの時に唱われた歌詞を集めたもの。山本修之助編。
山本修之助は昭和5 年『佐渡の民謡』出版時「佐渡音頭」の表題で刊行の予定だった。
その時の計画のように勘定流風の平仮名だけで実際の音頭本に似せて、体裁を横綴にした。
表題が「佐渡音頭」から「佐渡音頭本集成」に変わり、さらに昭和30年『相川音頭集成』が刊行になったのは、民謡団体の相川町「立浪会」の創立30周年記念事業の一つとしての援助があった。
また音頭の歌詞は佐渡の各地で同じものが唱われているが相川音頭は佐渡に残っている音頭の内最も古い歴史を持つ。
本書には時代を反映してか「心中物」が多く現在唱われている「源平軍談」などの「武勇物」は少ない。
ほかに「謡曲くずし」や「佐渡道中音頭」「水金女郎名くずし」など、佐渡を素材にしたものの他「信濃地震善光寺くどき」や全国に広く流布する「主水くどき」なども載る。
なお、山本修之助によって二編を追加して昭和50 年に『相川音頭全集』普及版として刊行された。

★御前踊り(『佐渡相川郷土史事典』他)

寛永18年の『異本佐渡風土記』に、「今年大広間(今の広間町)に踊りがあり、町々より金銀の飾りものを指上げ芸を尽した。特に山師・買石たちは金鍔を大竹に結びつけて、御門の前にたてた」とある。これは盆踊りで、奉行御覧の御前踊りではないかと思われる。
踊りの内容は、音頭踊りや甚句踊りであったかと思われる。
『相川略記』に、寛文十年「すっすおどり始まる」「これまではなもさおどりなり」とあるが、どのような踊りか不明である。
その頃は「音頭踊り」と「甚句踊り」二種しかなかったというから、それらの踊りを指しているのかも知れない。その後、七月十五日(久須美裕明『佐渡の日次』天保十二年)には、相川の奉行所前の広場に例年のように盆踊りがたち、これを御前音頭と称したらしい。
島内の音頭とりは、これに参加することをなによりの誇りとし参加を競った。
奉行は紫幕や青簾を垂れめぐらせ、毛氈を敷いた役所の物見からご覧になり、音頭とり・三味弾きなどに酒・肴、踊り子にはニギリメシ・煮しめなどを与え、労をねぎらうのが、毎年の例となっていた。
これが現在の相川音頭の源流だと言われる。


★『相川音頭全集』(山本修之助 昭和50年刊)より
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➡参照 ★本・資料(「資料一覧表」) 『相川音頭全集』
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